(マイクロソフトEdgeで音声で読み上げるが使えます)
音声ナレーション用に一部漢字をひらがなにしています。
ホームレスは神様
公園のゴミ箱を、あさっている年老いた老人が、拾い上げたのは、破れて表紙の無い聖書だった、
老人が、ゆっくり聖書を広げると、聖書は、みるみるうちに、新品に蘇り、老人の小脇に抱えられた。
老人は、どこへ行くという当てもなく、トボトボと
杖をつきながら、聖書を小脇に抱え、歩き始めた、
公園の、日向の隅にあるベンチに腰かけると
前屈みで、うつらうつら眠り始めた、
しばらく、ときがたち、夕暮れにさしかかり
少し早めの公園の街灯がつき始めたころ、
真っ黒な猫が、老人の膝に妙になつっこくすり寄ってきた、
犬歯が一つ欠けた年老いた猫だった、
老人の利き腕の片方の軍手から指の出た、しわだらけの
何もないはずの老人の手のひらだが、猫がひとなめすると、
陽炎のように好物の餌があらわれた、
老人はそっと、餌をベンチの片隅に置くと、
そのまま静かに立ち去っていった。
今日も、老人はいつもの公園にいた、
お気に入りの場所を見つけると、
また、昼寝を始めた、そんな老人の反対側に、今日は、若者がいた、
ギターのケースを抱えていて、練習を始めるようだ、
ちょっと、おもそうなケースを開けると、
古びたクラシックギターだが、よく手入れされた楽器が、そこにはあった、
若者はギターを抱えると
適当に足を組んで、ギターをひき始めた、
はじめは簡単なスケールや
アルペジオをひいてから
練習曲をひき始めた、
遠くで聴いていた老人が、薄目を開けて若者を見た、
老人の、年老いた耳がかすかに動いた、
そのまま老人は、また、目をつぶって、若者のひくギターを聴いていた、
若者は、今度のコンクールにひく、カプリチオアラベの練習を始めた
前回の、コンクールでは落選したが、次のコンクールが、最後のチャンスだと心に決めていた、
カプリチオは、最初の和音のハーモニックスから始まり
低音部の、スピード感のあるスケールで始まる奇想曲なのだ、
若者は、いつも緊張して、この最初のスケールがうまくひけない、
どうしても、ためが甘く、走り気味の演奏になってしまうのだ、
そのようすを見ていた老人が、ゆっくり腰を上げた、
そのまま杖をつきながら、若者の方に近寄っていった、
練習に没頭していた若者は、老人の気配に気付かず、一心不乱にギターをひいていた、
気がつくと、老人はもう若者の目の前に立っていた、
「こんにちは、おじいさん」 と若者は愛想良く挨拶を交わした、
老人は、何も答えずに、口元に笑みをたたえながら頷いた、
「ギターは好きですか?」と若者が訪ねると、
また、笑みをたたえながら頷いた、
「どうですか、僕のギター?、下手でしょう?」
いや、いや、と、老人は黙ったまま首を横に振った、
若者は、 「お疲れでしょう、よかったら、僕の隣にお座りください」
とすすめた、
老人は、ベンチの隅に腰かけると、
はじめて口を開いた、
「わしも、昔は、ギターをひいたもんじゃ」と言った、
若者は、老人をいぶかしそうに見ていたが、
「おじいさんも、ひいてみませんか?」と言ってみた、
老人は、ちょっとためらって、
「いやいや、もう、だめじゃよ、昔のようにはひけんよ」、
といって若者の顔をみた、
ちょっと、こうちょうした顔の若者は、「何でもいいですから、ひいてみてください」と言ってみた、
内心、このおじいさんの演奏では、ちょっとした、りゅうこうかの、伴奏程度なのだろうと思っていた、
老人は、若者の手から楽器を受け取ると、
若者から借りたネルで、愛おしそうに、丁寧に楽器のネックをふいた、
老人の足もとには、いつのまにか、足台があった、
老人は、ゆっくり、足台に左足を乗せると、糸巻きを、調整し始めた、
汚れてはいなかったが、しわだらけで、ゴツゴツした手を、器用に使って調律をしていた、
若者は、せっかく僕が調律したのにと、思いながらも、しょうが無いなーと思っていた。
老人は、いきなり若者がひいていた、カプリチオアラベをひき始めた、
最初のハーモニックスの、美しい響き、そして流れるように力強い、はじめのスケール、
それよりも、何より若者が驚いたのは、
いままでに聴いたことがない、美しい音色だった、
自分の楽器なのに、どうしてこんなおとが出るのか信じられなかった、
カプリチオの美しいメロディーの単音と
エキゾチックな低音部の展開が絡み合い
絶妙なバランスで聞き手に迫る、
中間部の転調から始まる、アクロバチックな演奏が、ハイポジションの美しい音色と共に盛り上がる、
そして、曲の終わりのほうに出てくる、下降ポルタメントの切なさが何とも言えない、
曲は展開部からリピートされ、はじめのテーマに戻るが、
あっというまの、演奏は、
若者にとって、この世のものとは思えない体験だった、
「あの?おじいさんはいったい?」と言いかけたとき、
老人は静かに目を閉じながら、
「誰でも出来るんじゃよ、おまえさんは、まだ、若い、これから、もっと上手になるよ」、と言った、
若者は、焦りながら「また、教えてくれますか?」と訪ねた、
老人は、うなずくと、「おまえさんの、楽器の調律が、気になったので、直しておいたよ、調律は、音楽なんじゃ、自分の調律を、探すのじゃよ」と言った、
「さて、 疲れた、 わしは帰るよ」とい言ったので、
若者は、われを忘れて、
早口で、「おじいさん送っていきましょうか?」と聞くと
「すぐ近くなのでかまわないよ」 と、言うと
また、トボトボ歩き始めた、若者が、後をおおうとして急いで
荷物を、整理していると、
もう、老人の姿は度声ともなく消えていた。